【SS】夜の公園で最後のキスを。
──まず断っておかねばならない。
ボクは夜が好きで、逆説的に言わせてもらえば昼間(つまり日の出ている時間のことだ)が嫌いだ。
そして、今回の話ではある意味最も重要なのだが、ボクには好きな女の子がいるのだ。ただし今説明したように、ボクは昼間が嫌いで、いつも彼女には予定を合わせてもらっている。
「そろそろ……時間だな」
築三十年そこそこを思わせるマンションのベランダから階下を覗けばある、ここはそんな公園だった。
「ごめんなさい、待った?」
「ううん、今来たところさ。ボクのほうこそ、いつもこんな時間でごめんよ」
やむなくして心待ちにした彼女の姿を認め、ボクは頭を掻いた。
「今日は大切な話があるんだ」
公園の隅にある小さなベンチに二人して腰掛けると、ボクはそう切り出した。まるでこれから愛の告白でもするように。
「知ってる。こないだ会った時に聞いたものね」
くすぐったくなるような笑みをこぼし、彼女は自慢のロングヘアを払う。闇夜に紛れるような黒髪が美しくて、ボクは思わず見とれていた。
「それで、どんな話なの?」
「ああ、うん」
彼女に声を掛けられてハッと我に返る。これでも覚悟を決めてきたはずなのに、いざ彼女に相対するとそれを言い出したくなくなってしまう。
少し腰が痛くなってきたので、ベンチの背にもたれて空を仰いだ。
「今日も月が綺麗だね」
「そうね」
「あの日も今日と同じ、満月だった」
ボクがそれを口にした瞬間、彼女の表情がこわばる。
「今日は、君に別れを言いに来たんだ」
言いたくはなかった。ずっと彼女と一緒にいたかった。しかしそれは叶わないのだ。
「そう……もうここに思い残したことはないのね?」
「思い残したことはあるさ。こうして君に別れを告げねばならなくなった。それだけでボクは悔やんでも悔やみきれない」
ボクは夜が好きだ。怒りも哀しみも、妬みも悔やみも、この闇夜が溶かしてくれるから。
「あの日、ボクが『会おう』と言わなければ、今日の苦しみはなかったのにね」
「違う、いいの! 私、今日までずっと考えてきた。二人が幸せな人生を歩むなら、今あなたが言ったように……ここでお別れをしなきゃならないんだろうな、って」
そうしなければならなくなったのは、あの日のことが原因なのに?
艶やかな、月光のように白い彼女の頬に涙が伝った。しかしその顔は必死に作られた笑顔で、ボクは胸が張り裂けそうになる。最後まで、君に幸せを届けられなかったのか、と。
「最後に、一つだけお願いがあるの」
「何だい?」
「キスして」
ボクは耳を疑ったさ。ずっと片思いだと思っていた彼女から、キスの要求があるなど、誰が思うだろうか。
「いいの、かい?」
「最後だもの。私はここであなたと決別するけど、あなたには安らかに眠ってほしいから」
彼女の言葉に、ボクはふと引っ掛かりをおぼえる。
「……今、何て?」
「だから、私は最後にあなたとキスをしてここを去る。それであなたは、その……成仏をするのでしょう?」
ボクは彼女の瞳を見つめたまま、固まった。
「ボクが……成仏?」
「そうよ。あの日、ここのマンションの最上階に住んでいたあなたは、不幸にも転落死してしまった。それから毎日のようにここへ通ったわ。それで今日、あなたが眠りにつくと言い出して、私も決心がついたの」
「君は……何を言っているんだい?」
どうやら重大な行き違いがあるらしいと、ボクは痛む腰を我慢して立ち上がった。
「違うんだ、成仏するのはボクじゃない──君のほうなんだよ」
「……え?」
まるで重大性をわかっていない、きょとんとした彼女は、あの日のままの澄んだ瞳をボクに向ける。
「あの日亡くなったのはボクじゃないんだ。この公園で、今日のように待っていたボクを訪れる為に、君はここへ走ったんだろう……トラックが飛び出してきたにも関わらず」
「そ、そんな! じゃあ私はあの日から年を取って……え、やだ、何でこんなに肌が、えっ!?」
「あの日から今日でちょうど三十年。ボクは今年で五十歳になるけど、君はあの日の……二十歳のままなんだ」
ボクはようやく言った。三十年間、いつ言おうかと思案しながらもとうとう今日まで引きずってしまった。
大好きだった彼女が亡くなってからも三十年間、毎日のようにここで待った。──あの日ここにたどり着けなかった彼女が、訪れてくれたから。
「……何だ、そうだったんだ」
彼女は少し残念そうに、しかしそれ以上に安心した様子で、半ば笑ったような表情で息を吐いた。
「私だったら、いつでもよかった。こんなに引きずらずに、成仏できたのに」
「いいんだ。ボクが君に会いたかったんだから」
「私、あなたの三十年を無駄にしちゃったわ。こんなことなら、もっとあなたに人生を謳歌してもらいたかった」
心底悔しそうに、彼女はうつむく。ぽたりと、一滴が地面に落ちた。
「いいんだ。君と過ごした三十年は、ボクにとって何ものにもかかわらず代え難い三十年だった」
「ありが、と……」
「ボクからも最後のお願いがあるんだ。聞いてくれないか?」
「いいわ。最後だもの。何かしてあげたいわ」
ボクからの願い。三十年──いや、それ以上彼女を想い続けたボクの、最後の願いは。
「キスしてくれないか」
瞬間、ふんわりとボクの体に彼女の体が合わさる。
「大好き」
そっと、口づけ。
幽霊だからなのか、彼女の体にはやはり重みがなかった。腰痛持ちのボクが何も感じないのだから、実体ではないのだ。
それでもボクは彼女との最初で最後のキスを、確かに味わった。彼女の最後の言葉とともに。
「……さようなら、愛しの君。ボクの心の中に、永遠に」
もう少し、ここにいてもいいか。ボクは感慨深い気持ちで、もう一度ベンチに腰掛ける。
彼女の消え去った公園には、少し冷え始めた闇夜と中年男だけが残されていた──……。
(最終更新日:2019.10.11)
この作品は私来栖あさひが2011年10月20日に小説投稿サイト小説家になろうに投稿した作品を転載し、一部修正を加えたものです。